事務局からのお知らせ

特別寄稿『かけがえのない時間を振り返って』 森山秀徳先生

東日本大震災から10年を迎えようとしています。そこで、自分が過ごしたかけがえのない時間を振り返ってみたいと思います。

約5年間岩手県陸前高田市と大船渡市で被災地支援に取り組みました。その間常勤医で働きながら、学校医・陸前高田市子ども子育て会議委員を務めさせていただきました。震災後に5年という長期に渡り被災地支援をしたのはあまり例がないことだったと思います。自分が地域のお役に立ちたいと思いながらも、逆に学びを得ることも非常に多かったです。自分に子どもの肥満という今後も取り組むべきテーマも与えてくれました。
私は国境なき医師団を通じて国際人道支援にも関わってきました。「なぜ困っている隣人を助けるのではなく遠い貧しい国の人を助けるのか」というよくある問いはいつも自分を一旦立ち止まらせます。究極に突き詰めれば結局は自分がしたいから、自分のためというのがその答えになってしまいます。純粋に子供たちを救いたいと思う一方で、世界の真実を知りたい、自分を成長させたいという欲求も自分を突き動かします。被災地支援に当てはめた場合、私が被災地でしたことは結局は自分のためなのか。
「魚を与えるのではなく魚の釣り方を教える」これはよく国際人道支援で使われる言葉です。緊急支援の場合には仕方ないが、長期の支援の場合に例えば服を無償で渡し続けると地元の服が売れなくなり経済の自立が難しくなる。これはアフリカの声です。さらには、最初はそのつもりがなくても物をあげ続けることでその人たちを物乞いにしてしまい、支援依存の構造にはまってしまう。つまり支援の仕方はいつも考えなくてはならない。自分が来たことで何かマイナスのことはなかったかと一度渕向先生に聞いたことがありますが、その時の答えはないんじゃないかなでした。そっと胸を撫で下ろしたのを覚えています。
啓発活動としてラジオ番組を持ったり、Blooming TAKATAという団体を作り子どもの健康支援や遊び場作りもしてきました。マスメディアにもいろいろと取り上げていただき自己陶酔になりかける一方で、本当の子供たちの支援にはずっとずっと手探りでした。上手くいかないことも多々ありましたがなんとか必要と思うことはしたつもりです。小児科での診療も子どもとその親御さんに寄り添う気持ちをいつも大事にしていました。

私は岩手県の皆さんからたくさんの愛情を受け取りました。自分もなんとか恩返しをしたいと一生懸命でした。例え自分のためであったとしても、愛情を持って相手のことを真剣に考えることが支援なのだと思います。もちろんこれからも被災地への愛情を持ち続けたいと思います。また皆さんにお会いできる日を本当に楽しみにしてます。自分がいた頃にはまだ開設されてなかった高田松原津波復興祈念公園には是非とも訪れたいです。

 

特別寄稿 『震災後に東北で勤務して感じたこと』岩手県立磐井病院小児科 東梅ひろみ先生

わたしが東北で初めて勤務させてもらったのは2014年だったので、震災からすでに3年経過し震災直後に比べれば少し落ち着いた頃だったのだと思います.
1ヶ月は岩手県立大船渡病院、その後1週間は現勤務先の岩手県立磐井病院で応援医として勤務させていただきました.
至る所で震災経験者の生の声を耳にし、復興途中の努力を目にし、大変な時期を乗り越えようと皆さんが必死に頑張っていることを感じました. そんな中でわたしが驚いたのは「人の優しさ」でした。応援医である短期間勤務のわたしを、本当に快く仲間として迎え入れてくれました. 渕向先生をはじめとする多くの先生方や病院スタッフの方々のことが強く印象に残り今でも鮮明に覚えています. 震災という辛い経験がここまで人を優しくするのか?元々の県民性なのか?震災後の応援医という立場では不謹慎なのかもしれませんが、非常に楽しく心地よく仲間に入れてもらえたことを今も非常に感謝しています.

それから、月日が流れ現在は常勤医として磐井病院にお世話になっていますが、震災後のあの思いや経験がなければ今こうして岩手県にいることはなかったと思います. 現在は、わたし以外に小児科常勤医3名・看護師・他職種スタッフの皆さんと毎日働かせてもらっています. 決して十分な人数だとは言えませんが、それぞれがそれぞれの立場から、体力的にも精神的にも一人にだけ無理がかからないように自然とお互いを支え合えあえている職場だと感じています.

震災を通して知り合えた大切な仲間であり、職場だと思っています.