事務局からのお知らせ
特別寄稿 『東日本大震災から10年目を迎えて』 岩手県立磐井病院小児科 丸山秀和先生
東日本大震災、あれから今年度で10年目が経とうとしております. 月日が経つのは早いものだと感じております.
現在まで東日本大震災復興支援をいただいており、この場をお借りして支援いただきました方々へ御礼申し上げたく存じます. 当院はもともと震災前から小児科医不足の状態でした.
震災当時もまた、さまざまな患者が近辺から集まってくる状態で、その中を当院小児科医等当院の医師の方々、コメディカルの方々、近隣の開業医の先生方と、皆で何とか乗り切ってきました.
その後、復興支援のお話をいただき、現在まで、様々な方々からの救いの手を差し伸べていただきました. 最近は新型コロナウイルス感染症の流行拡大の影響で対応が煩雑になり、いままでとは異なった大変さを感じておりますが、復興支援で当院へ来て下さる先生のお力添えで負担は軽減されており、感謝の念に堪えません. 今後とも皆様方のお力をお借りできればと思います. 今後とも何卒宜しく御願い致します.
最後だとわかっていたなら
岩手日報企画「大切な人を想う日」より
あなたが眠りにつくのを、見るのが最後だとわかっていたなら
わたしはもっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように 祈っただろう
「最後だとわかっていたなら」の物語 はこちらへ
そして、立ち上がった公立岩瀨病院!!!!
翌日に新病棟への引っ越し
翌日に新病棟への引っ越しを控えていた福島県須賀川市の公立岩瀬病院も、あの日大きな揺れに見舞われた。病院屋上の煙突が折れ、数トンに及ぶコンクリートの塊が検査室天井を直撃、また貯水槽の配管が破裂、貯水が滝のように中央階段に流れ込んだ。しかし、彼らは一丸となって100名を超える患者を余震のたびにボルトが抜けていく非常階段を使い、45分間で移送した。また停電の中、必死の思いでベッド搬送や医療資機材の手渡しリレーを行った。
それでもなお震災は彼らを苦しめた。東京電力福島第一原子力発電所の事故の全容が徐々に明らかになる中、病院上階よりみえる国道4号線は南に向かう車列で渋滞であった。那須塩原駅には、無数の車が乗り捨てられていた。一方で福島に向かう支援物資は皆無であった。「医療者」なのか「被災者」なのか苦悩が彼らを覆った。
東日本大震災継続支援ワーキング報告書の冒頭になります(本文はこちらとこちら)
特別寄稿 公立岩瀨病院 事務長 塩田卓
東日本大震災発災10年
東日本大震災の発災から10年という月日が流れようとしている今、止まった時間は確実に前に、前に、と力強く歩み始めています。
特に福島県では、地震、津波の被害に加え原子力災害という、目に見えない恐怖と向き合ってきた日々でもあり、多くの子供達や将来を担うであろう若者たちが、県外へ生活の場を移さざるを得ない状況となりました。
この環境変化は、医療従事者にも等しく降りかかるもので、県内で地域医療を守り続けることの困難さに直面するものでした。
我が公立岩瀬病院では、地域が目指す将来のために「安心して子どもを産み育てられる地域づくり」の一環として、平成29年3月から長く休止していた産科婦人科診療を再開し、NICU3床、GCU6床の周産期医療センターを稼働し、新たな役割を担っています。
この歩みは、全国の小児科の先生方にお力添えをいただいていることが大きな後押しとなっており、引き続きご支援をお願いします。
公立岩瀨病院 事務長 塩田卓